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126年の歩み -戦後~高度成長期-

鍋林株式会社 126年の歩み

戦後~高度成長期

【戦後―国民の健康を守るために法人化】
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設立当時の本社(昭和24年)

幸太郎は「敗戦国民として償いは当然の義務。それを果たすためには国民の健康が不可欠であり、復興のための生産資材が必要である」と考え、終戦直後の8月20日から25日に東京をはじめ、名古屋や大阪の仕入れ先を訪問し、逸早く仕入れ活動を行いました。
さらに、自ら何をすべきか模索し、新しい時代の変化に対応し、より一層の発展を図るために個人経営の商店から脱皮して法人化を決意する。そこで行ったのは、昭和23(1948)年4月8日の株式会社設立登記でした。

【日本一の企業を目指して拠点を拡大】
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開設当時の東京出張所

医薬品や工業薬品、塗料、染料、写真用品の商社として県内を中心に営業活動を行っていましたが、昭和23(1948)年11月に県外拠点として初めて東京出張所と新潟出張所を開設します。
昭和30(1955)年には県内初の営業所を長野市に開設。その後山梨県甲府市、辰野、伊那をはじめ、関東甲信地区と大阪に14の営業拠点を持つまでに拡大しました。昭和39(1964)年から45(1970)年にかけて、配送センターも併設することによって、品切れの防止や在庫の適正化、仕入れ費用のコストダウンへとつながりました。
事業の多角化に伴い、昭和38(1963)年には商号を株式会社鍋林商店から鍋林株式会社へと変更。分社化も進み、一般医薬品・雑貨は「ナベリンファーマシー」、カラーフィルムの現像焼き付けは「中部カラー」、防疫薬品・ワクチン製剤は「ナルコ薬品」などを設立。全14社のグループ企業となりました。

【業界団体の組織に参画し、自社と業界の発展に貢献】
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ちどり会研修会(昭和31年5月20日 京都)

昭和27(1952)年、戦後の配給統制撤廃を機に、医薬品業界も自由経済となります。メーカー各社は設備投資を重ねて大衆薬を大量生産・販売し、販売競争が激化。市場の価格の混乱を招きました。それまでメーカーと卸業とが一体化していた組織から、卸業は自主的な組織「日本医薬品卸業連合会」を発足。同じ頃、長野県薬品卸協同組合も設立されました。
また、医薬品卸業が受注と納品だけに留まらず、商品知識・販売促進・経営についても相談できる主体的な卸業に進化できるよう、相互の意見交換や、先進的な欧米企業の視察、経営の合理化などの勉強会を開く経営合理化研究会「ちどり会」を結成。中でも経営合理化に積極的だった企業が「ALS(アルス)会」を発足し、当社はいずれの会にも参画しました。

【自社の経営合理化を推進】
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事務機器が導入されシステム化された当時の事務所内

経営合理化を進めるため、昭和29(1954)年頃から社内の事務作業の効率化が始まりました。昭和31(1956)年には手書きだった帳票事務にNCRの51型会計機を導入。ファイリングシステム(レミントンランド社)、売掛金・買掛金の記帳、カナ文字タイプ(ヘルメス)と、機械化を進めました。当時は画期的なこととして業界紙でも取上げられるほどでした。
課題だった配送は、配達コースによって時間を定めて運送するという、当時としては革新的な「ダイヤ配送システム」を構築しました。
また昭和33(1958)年には予算制度を発足し、利益を記録法で管理。販売データもセールスマン別・種目別にして売上げを促進しました。この結果、売上高は昭和29(1954)年度の5億1000万から、昭和37(1962)年度は18億9000万と9年間で3.6倍となりました。

【先駆的な海外視察で順次欧米の方式を導入】
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松本配送センター

昭和30年代には他の産業界と同じく医薬卸業界も先進技術を学ぶべく欧米視察を始めました。「卸機能の追求」を目的に、昭和36(1961)年のヨーロッパを皮切りに、以後10年にわたり欧米へ18回の視察を実施。コストダウンと利益確保のため「配送センターの導入」「コンピュータの導入」、営業コストを低減する「機能別営業費会計システムの導入」を実践しました。その後、当社では、倉庫内で効率良く作業ができる「配送センターシステム」を導入。「配送センター」というネーミングは業界初で、全国からの視察も相次ぎました。

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